誰もが情報発信する時代に必要な当事者としての思い 「当事者」の時代

◎ 「当事者」の時代


いつもの佐々木さんの本に比べて、主旨が判り難い。
いやー、読むのが大変だった。
465ページという新書本としては、非常に厚い本。
その始めの143ページまでは、
記者会見と夜回りという事件記者としての取材形式の話。


書名の当事者の話にならない。
これは最終章の426ページまで同じで、
何が当事者の話なのか判らない。


終章とあとがきで、初めて論旨がつながる。
終章を始めに書いて、主旨を述べてくれれば、
非常に判り易い本だと思う。


佐々木さんの意図がある描き方なのだろう。


終戦で、庶民は騙された、被害者と言う意識だった。
それが小田実の被害者が加害者になるという意見、
同じ論旨の津村喬が補強し、
その考えが、マイノリティ憑依という偽りとなり、
去年の震災で被害者としての当事者の感覚になる、
と言うような流れ。


新聞記者として仕事をしていると、
被害者でもないのに、被害者のような記事を書く必要があり、
新聞記者という仕事での、
ワダカマリがあるのだろう。


確かに私らのようなIT系での客先常駐仕事をしていても、
実際には、客の状況などよく判らないのに、
客の立場に立って外部と会議などをもち、
少々違和感を持つことがある。


以下、気になった部分。


180ページ

豆腐屋の四季』というノンフィクションの名著がある。書かれたのは1968年。



187ページ

つねに市民は、権力に蹂躙され、か弱い被害者。そういう型から逸脱した原稿は、新聞のコンテキストには適合できないということなのだ。
要するにマスメディアの正義の依拠する場所は、うるさいマイノリティである市民運動家ではなく、黙して語らないマジョリティの庶民たちなのである。



188ページ

市民とメディアのねじくれた構造
・・・・既存メディアは日々、正義や国家について報じ、社説で論じている。市民ジャーナリズムはそうした概念を抽象的なな言葉でこねくり回すのではなく、足元の世界とそこから見える世界を活字せよ、という。



252ページ

しかし翌1966年、このべ平連の考え方は180度転回する。・・・・



253ページ

小田あの論理はこうだった。
ベトナム戦争に兵士として駆り出されているアメリカの若者は、「国に命令されている」と言う意味では被害者だ。そしてベトナム戦争で人を殺していると言う意味では加害者だ。・・・・・
「被害者であることによって、加害者になってしまった」



254ページ

この「被害者だからこそ加害者になる」と言う関係。<被害者=加害者>というメカニズムに、私たち一人ひとりは取り込まれてしまっている。



269ページ

メッセージの最後はこうく締めくくられている。
「われわれは戦前、戦後、日本人民が権力に屈服したあと、我々を残酷に抑圧してきたことを指摘したい。われわれは、言葉においては、もはや諸君らを信用できない。実践がされていないではないか。



271ページ

これは小田実から始まった<被害者=加害者>論が、津村喬によって在日や華僑などの「内なる異邦人」との接続へと発展し、そしてその論が一気に学生運動全体へと広まった瞬間だった。

「『7・7告発』を通して、われわれは、在日人民やアジア人民の歴史と生活、そのなかでの彼らの苦闘を全く共有しえていない現実を突き付けられたのである。そのなかで、歴史と現実を知らないこと、知ろうとしないことを痛感したのである。



272ページ

つまりは在日のような<異邦人>こそが、革命を目指す運動の主体になるということに思いが至ったということなのだ。
このような方向性は、60年代末の学生運動が行き詰って道筋を見失っていたこの時代にあって、新たな光明のようなものでもあった。



278ページ

小田実の<被害者=加害者>論。
津村喬の『われらの内なる差別』。
戦後初めて台頭してきた、新たなマイノリティへの視線。それは1960年代まで全く放置されていたアジアの戦争被害や在日朝鮮人アイヌジェンダー差別など、さまざまに隠されていたマイノリティの社会問題を一気に表舞台へと押し出し、可視化させる役割を果たした。
しかし、このマイノリティ視線は思いもよらない副作用をもたらした。しかもその副作用は強烈で、致命的な毒を含む副作用だったのである。
それは言ってみれば、薬物のオーバードース(過剰摂取)のようなものだ。つまり人々は<被害者=加害者>論を過剰に受け入れ、踏み越えてしまったのである。



280ページ

小田はこの若者のことを、
「被害者体験を蹴飛ばすようにして加害者責任を追及するというせっかちで思い上がったことをやってのける若者が出てきたりするようになった。」



309ページ

そして本多はこう書く。
ベトナム人が日本の反戦運動を本当に信用するのは、日本人自身の問題--『沖縄』『安保』『北方領土』その他無数の『私たちの問題』に民族として取り組むときであろう。ベトナム反戦運動自体はむろん良いことだが、『自分自身の問題』としてとらえられていない限り、単なる免罪符に終わる」



347ページ

この何もない空間、空白こそが、「絶対」にほかならない。
この「絶対」は、空白であるがゆえに傷つけられず、汚されることもない。
この空間がたとえば何かの偶像とか構造物であったりすると、それはいずれは盗まれたり、傷つけられたり、経年変化で汚れたりしてしまう。しかし空白は何もない空間であるがゆえに傷つかず、永遠に無垢のまま存在し続けることができる。空白であるがゆえに、強い存在。



350ページ

神様がやってくる時には、人々に対して何らかの兆候のようなものが示される。これが「たたり」。今では悪いイメージに転化しているが、もともとは出現の際に神が見せる威力のようなものを指した。



383ページ

1960年代初頭まで、日本社会には在日や華僑、アイヌそして侵略されたアジア諸国といった弱者への視点はほぼ完璧に欠落していた。この欠落していた視点がついに獲得されるのは、1966年夏に小田実が<被害者=加害者>論をとなえた時のことである。



384ページ

日本の中流は戦後の高度経済成長によって実現したと、何となくとらえている人は少なくないだろう。しかし実はこの言葉が出てきたのは、高度経済成長が終わってからだ。正確に言えば1977年、経済学者の村上泰亮が『新中間大衆の時代』と言う本で、日本社会からは従来のクラシックな社会階層が溶解してなくなっており、「中」意識を持つ広範な社会階層が登場したと説明した。



388ページ

しかしこの層中流意識の高まりは、1970年代半ば以降マイナスへと転じていく。具体的にいえば、1973年までは「中の中」「中の上」の回答が増え続け、「中の下」「下」は減り続けていた。ところが73年以降は「中の中」は横ばいになり、「中の下」「下」が増えるようになったのだ。



392ページ

斉藤は『飽食窮民』のあとがきに、こう書いている。
「人間が生きていくうえで、どうしても必要と言うものでない、不要のものを、人間と自然を犠牲にして大量生産し大量消費している--そのやがてすぐ廃棄物になっていく不要な『モノ』の意味であり、そういう『モノ』を生産し消費しているメカニズムにはめ込まれて、身動きできなくなっているわれわれの社会の全体像



400ページ

しかしこのような暴力的なロジックは、日本のメディア空間ではごく普遍的だった。
しかもたちの悪いことに、読者にとってもこれらの記事は読むと面白い。なぜなら強烈で毒気のある事例が書かれているからだ。



409ページ

90年代までは一番大変なのは②の調整だったと指摘している。(『政治主導はなぜ失敗するのか?』2010年)。政策目標を考えるよりも、さまざまな業界や団体、政治家など多くの利害関係者の間に入ってそれらの調整を行うことの方がずっと大変だったというのだ。つまりは富を生むことよりも、富を分配することの方が難しかったということである。そしてこの分配をつかさどっていたからこそ、完了にはパワーがあった。



416ページ

この90年代後半と言う時期に何があったのだろうか。
答えは明確だ。55年体制の崩壊である。つまりは日本の時代精神が、94〜96年ごろを境にしてひっくりかえってしまったということなのだ。



419ページ

このようなフィード型の隠された共同体は、かつての日本政治の政策決定プロセスにも浸透していた。すなわちこのような二重構造こそが、日本社会全体に浸透拡散した、関係性の構図そのものだったということだ。



424ページ

しかし道は途絶えている
日本社会のアウトサイダーとしての「まれびと」。
その神の目線は幻想の市民と言う<マイノリティ憑依>に支配され、決して当事者としての意識を持ちえない。そしてマスメディアは、この濃密なコンテキストの共同体と<マイノリティ憑依>と言う2つの層の間を繰り返し往復し続けた。
1960年代末の学生運動に端を発した<マイノリティ憑依>のパラダイムは、朝日新聞のスター記者・本多勝一や、あるいは学生運動を担った若者たちが新聞社やテレビ局へと入社し、そこで中堅記者として活躍するようになった70年代半ばから80年代にかけてマスメディアのパラダイムとして確立していく。
しかしこのパラダイムを支える基盤となっていた社会体制は、わずか20年後の1990年代には早くも大きく変質し始める。
冷戦の終結とそれに伴う55年体制の崩壊。そしてグローバリゼーションの波がやってきて日本社会を呑み込み始めた。これが大きな社会の構造変化をもたらしたのだ。
高度成長とそれに続くバブルの終焉。そしてグローバリゼーションによって、二重構造を支える富はゼロサムに転じた。カネの切れ目が、縁の切れ目だ。裏側で手を握っても富が分配されなくなったから、「じゃあ表に出ろや」とガチンコの決着を付けようと考える人がたくさん現れてくる。
政治の55年体制も終焉を迎え、この縮図はもはや成り立たなくなってしまう。そもそもフィード共同体の背景要因にあった「富の配分」ができなくなってしまったのだから、当然のことだ。いま政治に求められているのは増え続ける富の配分ではなく、ゼロサムになってしまった富をどう維持し、増やし、「これらも富はありますよ」ということを国民に向かって提示できるかどうかということだ。
そして同時に、55年体制の崩壊、終身雇用制の消滅とグローバリゼーションの波の中で、<マイノリティ憑依>によるエンターテイメントは全く意味を持たなくなった。



443ページ

大きい事件や事故が起き、そしてそこで人が死ぬことを自分はどこかで期待していたのだ。
しかし新宿西口バス放火事件という無残な事件で初めて自分が当事者になり、石井はつくづくと思い知らされた。



448ページ

震災によって何が失われたのかと思うと、あの時見聞きしたものは強烈でした。戦争を体験していない現代の日本人にとって、あそこまで猫そぎの破壊は初めての経験だと思うんです。その状況を見た時、僕にはドキュメンタリーにするのは無理だと感じました。・・・僕には出来ない。打ちのめされて帰るしかないと思ったんです。



449ページ

現場を取材して報じると言うのは、物語を描くことである。
目にしたことをそのまま書いても、記事になるわけではない。そこに一つの物語を仮定し、その物語を通じて読者に考えなり思いなりを伝える。もしその仮定した物語が妥当性を持ち、説得力があれば、記事は読者に理解される。



450ページ

だが、東日本震災の被災地では、そうした物語をつむぎだすのは殆ど困難なように私には思えた。なぜなら被災者と取材者との間に、共感の空間を上手く作り出すことが出来ないからだ。結局のところ第三者の記者なんて傍観者にすぎないし、そういう第三者の記者が被災者の内面に入り込むなんてできっこないのだ。



455ページ

河北新報の記者たちは、被災者たちの希望を描くだけでなく、実は自分自身の希望も求めている。彼らの書く記事には、だから被災者の語る希望の言葉がよく登場する。



457ページ

だが私は新聞社の記者としてこれらの事件を取材し、しかし最後まで、「当事者であること」うぃ生み出せなかった。それはもちろん、当然のことだ---当事者ではなく、単なる取材者に過ぎなかったのだから。



462ページ

この新たなメディア空間では、全員がインサイダーなのだ。
インサイドとアウトサイドの境界は今まさに、消滅へと向かおうとしている。



464ページ

あとがき
私は2009年夏、『2011年新聞・テレビ消滅』(文春新書)という本を上梓し、そのなかでマスメディアがなぜ立ち行かなくなっているのかをビジネス構造の観点から論じた。・・・・・・・
本書はその続編に当たる。今回はビジネス論ではなく、ただひたすらその言論の問題を取り上げた。しかし私は巷間言われているような「新聞記者の質が落ちた」「メディアが劣化した」というような論には与しない。・・・・・・・・・・
そのような情緒論ではなく、今この国のメディア言論がなぜ岐路に立たされているのかを、よりロジカルに分析できないだろうか----そういう問題意識がスタート地点にあった。つまりは「劣化論」ではなく、マスメディア言論が2000年代以降の時代状況に追いつけなくなってしまっていることを、構造的に解き明かそうと考えたのである。
本書のプランは2009年ごろから考えはじめ、そして全体の構想は2011年春ごろにほぼ定まった。しかしその年の春に東日本大震災が起き、問題意識は「なぜマスメディア言論が時代に追いつけないのか」ということから大きくシフトし、「なぜ日本人社会の言論がこのような状況になってしまっているのか」という方向へと展開した。だから本書で描かれていることはマスメディア論ではなく、マスメディアもネットメディアも、さらには共同体における世間話メディアなども含めて日本人全体がつくり出しているメディア空間についての論考である。