ストロベリー・ロードの2部目 ストロベリー・ボーイ

◎ ストロベリー・ボーイ―ストロベリー・ロード PART2


前作、ストロベリー・ロード は、著者の4年間のアメリカ生活の始めの2年、
1965年4月から1967年7月だったが、
この続編である、1967年夏のニューヨークから始まるカリフォルニアへ戻る旅、
1年後にストロベリー・ファームをたたむまでの話。


1作目が素晴らしい出来だったので、
この2作目も良いのだが、1作目ほどのインパクトはないが、
お兄さんの白人女性との結婚、
タイ人との同居、
あの人がシカゴへ行ってしまう話し、
イチゴ相場が値崩れし、農場をたたむ、
など人の変化が良く判る。
それでも素晴らしい作品だ。


この期間に、
マーチー・ルーサー・キングやロバート・ケネディの暗殺があったことも
アメリカ、アメリカ人を考える切っ掛けにもなっている。



気になる部分


20ページ

アメリカが大きいと言う意味は、土地が広いと言うことではなく、もしろ空が大きいから人はそのように思うはずだ。

これは全く同感で、アメリカに行くと常に感じている。


27ページ

アメリカは、いやニューヨークと言った方がいいのかもしれないが、生きたいと願う人々よりも、もう生きたくない人生を生きる人にとっての方が、むしろ住みやすいのかもしれない。そして、ニューヨ−クこそ、もう生きるのも嫌だと思っている人間が、ゾロゾロと、あるいはウロウロとしていても、都市の風景に何の障害も与えない町なのかも知れない。いや、そのような人々こそニューヨークにとって不可欠の風景なのだ。



187ページ

人間が生きていく上で、最も根源的な事柄である「言葉」。
自分の根源である言葉の、その根っ子を犠牲にすると知りつつも、しかし人は、なぜ「アメリカ」にかくまでも多くの夢を托し、この国に移り住みたいと思うのだろうか。
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しかし、誰も彼も、「アメリカ」を否定的に語ろうとはしなかった。否定するのは、今自分が属している人間関係や職場であって、それは「アメリカ」ではなかった。アメリカはそこに在るのではなく、これから彼が向かう場所であった。



261ページ

キングの暗殺はアメリカの大事件だ。しかし僕も兄も、ここにいる三人のように泣くことが出来ない。三人は心から悲しく思い、涙を流している。・・・・その妻の悲しい涙を兄は共有できないのだ。お互いもともと他人だから、と言う理由ではない。別々の国で生まれた人間同士が、愛し合うことは可能だ。・・・・悲しみや、楽しみが、一方の人間の文化圏に起こった場合、彼あるいは彼女は単なる傍観者にとどまらざるを得ないのであり。



264ページ

牧師先生の顔にも、怒りや悲しみの相がうかがえる。でもそれは、たった今しがた、兄のうちで見た兄嫁や黒人姉弟の怒りや悲しみとは、どこか違う。



265ページ

アメリカは、ある事件が発生すると国内世論が統一される国だ、と僕は教えられ、またそう聞いてもきた。でもそれは、同じ方向、同じ質に人々の気分が統一されていくと言う意味ではない。むしろ逆なのだ。それは差異に向けて分解して行くのだ。自分の社会的な状況や自己の民族性に向けて、人々の心は動き出すのだ。その動きの振幅の大きさと要因が多様なので、外からは激しく見えるアメリカの世論は、あたかも統一されたかのごとき印象を与えているにすぎない。統一に向かうエネルギーが凄いのではない、ここに住み人々の民族的な感受性に向けて、むしろ分散回帰していくエネルギーが激しいのだ。



266ページ

人間というものは、三つのことでしか、自分以外の誰かと係わりを持つことはできません。言葉とビジネスとセックスです。



271ページ

お互いを知りすぎた国で育った人の間には、言葉とビジネスと性はほどほどにするようにとの黙約が存在する。僕らは僕らの内部にもあるはずの、その三つの本当の激しさを発見することができずに生きている。だが、この国に来ると、僕らは自分の中に隠されていた、激しい言葉への欲求、限りない物質への欲望、そして果てしない性への期待、それらの存在と可能性を知り、開放感を味わうことになるのだ。



272ページ

テロリズムと言うものは、言葉の無力を知ったゆえに発生するものでは在りません。その逆なんです。言葉が自分の中で昂まり圧縮された時、行為は言葉と同等のもになって現れてくるのです。
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言葉の自由があればあるほど、言葉が激しくなればなるほどテロリズムは起こる可能性があるのです。言葉に力がない時代には、真のテロリストは出現しないのです。



299ページ

私ね、言葉というものに、とても敏感になっていることに気が付いたの。何をどう語り、どのように聞くのか、人間って、これが全てのように思えるのよ。アメリカの人間が、あんなに激しくい議論し、怒鳴りあっている姿を見ると、悲しくなるわね。何て人間って通じ合えないものなのかと。・・・・本当は、その人の言葉や言葉遣いが嫌いになった。

日本と日本人に再会するため、私は、もう一度アメリカの大学で勉強しようと考えているのよ。そして、私の言葉をちゃんと理解してくれる人と、いつか出会いたいの。その人が、私にとっての『日本であり日本人』だと思いたいの。