怒涛の3月だった

今朝寺に電話し、塔婆を頼む。
電話だけで済んで、寺の事務所へ行く必要がなく助かった。


先月は我が家にとって怒涛の3月だった。


3月4日(金)昼にオフクロの容態が悪いと知らせでナーシングホームへ。
でも持ち直した。
土曜、日曜も行ったが、しばらく大丈夫だろうとなった。
しかし、小学校の同級生の葬儀屋に相談。
段取りを少々理解。
家族葬ということで、自宅で通夜、葬儀をすることにした。


3月7日(月)昼に再度危篤の知らせで行くと既に亡くなっていた。
それから葬儀屋に電話。
3時に葬儀屋の車でオフクロを我が家へ連れて帰る。


通夜の準備、親戚に電話。


6時から通夜。
皆が帰ったのは10時過ぎだったか。


3月8日(火)1時半から葬儀。
密葬(家族葬)にしたが、それでも20名ほどで狭い我が家はいっぱい。
3時半から火葬。
その間に仕出し屋へ会食の数を何回も修正の電話。
5時から寺でお経、初七日、会食。
我が家へ姉妹の家族も来て、皆が帰ったのは9時過ぎ頃。


9日、10日は忌引で休み、支払いに回る。疲れた。
その間にも、線香を上げに来てくれる人がいる。


3月11日(金)出社、14:46 東日本大震災
会社のでかいビルも可也のゆれ。
会社からの帰宅の指示は中々出ず、殆ど人は会社に残った。


6時に退社。
芝浦-芝-日比谷-霞ヶ関-永田町-四谷-新宿-新大久保-高田馬場-目白-池袋-小竹向原-氷川台-下赤塚
夜1時に到着。


延べ7時間だが、途中で1回お茶、1回ビール休憩したので、
実際に歩いたのは5時間半程度。
歩いた距離は25キロ。


沢山の人が歩いていたし、歩くのは楽しかったし、
歩けることを実証できたことが嬉しかった。


3月12日(土)、13日(日)は2日間テレビを見っぱなし
14日(月)休んで、女房の個展の搬入。半日かけて展示を終了。
この間に会社から電話で16日まで自宅待機との連絡。
15日(火)自宅待機だが、午後から女房の個展を応援に行く。
その間にまた会社から電話で、自宅待機は終わりとのこと。


18日(金)忌引で休み、位牌を頼みに行く。
午後は壊れたスチールの本棚を解体。大変だった。
19日(土)夕方から女房の個展、ジャズライブ、その後打ち上げ。
夜は自宅近所のジャズバーQOOでのみ。
20日(日)女房の個展、夕方から撤去作業。
19時頃には自宅に荷物を持って帰り、自宅は荷物、頂いた花でいっぱい。
夜中にまた近所のジャズ少々へ花を持って飲みに行く。



これ以外にも、震災、原発事故のテレビニュースにかじりついている時間が多かった。


いまだに、床いっぱいの本の中に、かろうじて隙間を作って寝ている。
これの片付けが残っている。


3月は、母の葬儀、女房の個展、地震の騒ぎ、地震での本棚が壊れたこと、原発事故の心配など怒涛の日々だった。